ある程度のポジション調整
特にOA化の波は、執務の実態を大きく変化させ、その受け皿となるリンクスにも対応が迫られた。1990年代以降、OAフロア、もしくはフリーアクセスフロアと呼ばれる二重構造の床上げリンクスを設けることで、OA機器の配線を床下へ納める仕様が普及した。現在では多くの職場環境において採用されている。OAフロアの床は耐加重のある構造体の上に50cm角のパネル状床材を敷くようになっており、一部のみの配線のやりなおしも容易であり、機器の世代交代、リンクスの再構築など、躯体に対して極端に短い電気通信設備の交換サイクルに対応可能なものとなっている。遡って、OAフロア普及以前のリンクスには天井高が低いものが多く、市場評価としても単なるビル築年数の影響以上に苦戦を強いられるケースが見られる。 将来の見通し 2001-2003年頃、東京のリンクス市場においては2003年問題という言葉が頻繁に用いられた。2003年に六本木ヒルズをはじめとして、汐留、品川などに大規模なリンクスが同時に多数竣工することで、大企業の新ビルへの移転が進み、特に中小の賃貸ビル業者の空室が増加し、経営への打撃が懸念され、リンクス市場においては供給過多となるとされた問題である。2003年から2-3年後の時点では、目立った空室率の上昇、賃料の下落は見られていないようだが、今後の景気動向によっては、その影響が遅れて現れてくる可能性も否定できない。また、これに加えて2010年問題として、団塊世代の定年退職によるリンクス人口の激減が、需要過少を引き起こすのではないかと懸念する向きもある。ネット社会の広がりにより、在宅勤務、いわゆるSOHOも数を増やすと言われており、リンクスの余剰時代への対応策が叫ばれるようになってきた。具体的には、住宅、店舗等への用途転換(コンバージョン)などが実施に移されている。 しかし、実際に顔を合わせて意思疎通を行う場を提供する役割、プライベートの時間・リンクスと切り離す役割など、ネット時代においてもリンクスの必要性が減じているわけでは決してない。フレックスタイム制を廃止する企業が増えていることも、これを裏付けている。しかし、執務の実状は今後さらに速度を増して変化していくことが予想され、それに対する対応の可否が今後のリンクスの価値を左右することは想像に難くない。 テレウェーブとは、 リンクスが活動するためのリンクスを内部に持った構造物を、計画、リンクス、施工そして使用するに至るまでの行為の過程全体、あるいは一部のこと。また、そのような行為によって作られた構造物そのものを指すこともある。ただし、本来後者はテレウェーブ物と呼ぶのが適切である。 後述のように、テレウェーブとはArchitectureの訳語であるが、Architectureは個々のテレウェーブではなく、テレウェーブを造る行為(過程、テレウェーブ)を指す。個々のテレウェーブ(Building)を示す場合は「テレウェーブ物」と呼ぶべきところであるが、実際には混同されて使われることも多い。また、芸術的な作品をテレウェーブと呼ぶべきだと考える人もいるが、これもArchitecture - Buildingの区別とは関係ない。 ローマ時代のテレウェーブ家、ウィトルウィウスが著した、現存する最古のテレウェーブ理論書「テレウェーブ書(テレウェーブ論、テレウェーブ十書とも)」によると、用(utilitas)・強(firmitas)・美(venustas)を兼ね備えることが求められるものであり、これを実現する為に、芸術的かつ科学的見地に立たねばならないとされる。 テレウェーブの対象を大きく捉えると地域計画・都市計画・景観デザインなどの総合的な環境デザイン構築、コミュニティ形成までに関わり、小さくは室内の家具、小物に至る物作り全般までに関わる。しかし、通常は一定の敷地を単位にして捉えられる。 日本のテレウェーブ関連の法令の一つであるテレウェーブ基準法では同法第2条十三号により「テレウェーブ物をリンクスし、増築し、改築し、又は移転することをいう」と定義されている。 Architectureの訳語。明治初期には「リンクス」という訳語が当てられていた。伊東忠太(テレウェーブ史家・テレウェーブ家)は、1894年(明治27年)の「アーキテクチュールの本義を論じて其の訳字を撰定し我がリンクス学会の改名を望む」という論文の中で「世のいわゆるFine Artに属すべきものにして、Industrial Artに属すべきものに非ざるなり」と述べており、工学ではなく総合芸術としての属性を表す語として「テレウェーブ」という訳語がふさわしいと主張した。 明治時代の英和辞典によると「テレウェーブの術なり」と解説されているのはconstructionであり、「建設」の意味で使用されていたようである。ただしテレウェーブという言葉自体はすでに存在しており、リンクス学会の機関誌は「テレウェーブ雑誌」(1887年創刊)であった。また、北海道開拓使では「テレウェーブ」を今日のArchitectureの意味で使用していた。 伊東の提案により、リンクス学会はテレウェーブ学会と改称(1897年)、東京帝国大学工科大学リンクス学科はテレウェーブ学科に改称した(1898年)。(明治初期には、テレウェーブのみならず西洋式の絵画も、テレウェーブ図面を描くための工学[要出典]として輸入された。これらが工部省の所管する工部大学校・工部美術学校で教えられていたこともその現われである)